虚栄心
2023-01-11
SNSは人から「いいね!」という評価が欲しくてやる人が少なくない。
「いいね!」の数が多ければ多いほど、その人は自分の存在が社会から認められた気分になって、嬉しいと感じるのだろう。
ただし、「いいね!」にも100%評価する「いいね!」もあれば、50%評価する「いいね!」もあるだろうから、気持ちの幅がありすぎて、あてにならないものだと思う。
そんな「いいね!」で自己確認をして、しばしの自己満足を得られるとしても、それは自分に自信がないことの裏返しにすぎない。
ネット上で人からの評価を絶えず気にし、いい評価を求めることに心を悩ましている人は、少し批判されたりするだけで落ち込んだり、攻撃的になったりすることがある。
しかし、見ず知らずの人から何といわれようと、他人はその場限りの印象や思いつきで何かいっているだけであるから、そのことにいいも悪いもない。
真に受ける必要はどこにもないのだ。
その人のことをよく知っている身近な人からの評価や判断なら参考になるが、そうでない人からの評価で落ち込むなどバカげている。
最近は世代が若くなるほど、人づき合いが淡泊だといわれている。
恋人どうしでさえ、ひと月に1回ぐらいしかデートをしなかったり、深くつき合うことを避けたりする人も少なくないらしい。
こうしたことはネットの影響も多分にあるのだろう。
表面的な部分だけで軽くつき合い、深く交わろうとしないのは、傷つくのが恐いという心理が働いているからなのではないだろうか。
それは自分に自信がなく、自立した精神が育っていないからだと思う。
その結果がSNSで「いいね!」という評価を求めたり、「いい人」と思われたい行動につながったりするのだ。
ある社会学者が、今の日本人には他人の目線を気にして「いい人」として振る舞う「いい人」願望を持つ人が増えているといっていたが、実際にそうなのかもしれない。
だから「いい人」と思われたい人の「いい人」とは、自ら善を求めてではなく、傷つきたくない自己保身の欲求から成り立っている。
もっと突き詰めれば、「いい人」願望のさらに奥にあるのは虚栄心である。
人から格好よく思われたい、自分を実力以上に見てもらいたい。
こうした虚栄心は少なからず誰にでもあるものだが、「いい人」と思われたい人にも、根底には虚栄心があるのだ。
「いいね!」がつかないと落ち込んだり不安になるという人は、一度よく自分の内面について考えてみるといいと思う。
「いいね!」を求める時間を他のことに費やしたほうが、自分の器を大きくすることに間違いなくつながるからである。
虚栄心は、強すぎるとよくないものである。
強すぎると自己中心的な考え方が支配的になり、人を蹴飛ばしてでも己の欲を満たそうとする。
会社でいえば、部下の手柄を自分のものにしてしまう上司なんかは、悪い虚栄心を持っているといえるだろう。
とはいえ虚栄心は、ほどほどにある分には自分を向上させる原動力にもなりうるし、負けたくない一心で虚栄から生じた目標を達成することもできる。
これはよい虚栄心である。
だから、虚栄心を一概によくないものとして否定する必要はない。
一見つつましく、いい人に見える人の中にも、根強く虚栄心は息づいている。
この虚栄心は果たしていい虚栄かよくない虚栄なのか?
虚栄にとらわれることで人生の内実が貧しくなっているのなら、それはよくない虚栄ということになるだろう。
いい虚栄と良くない虚栄の間で、いかにバランスをとるか。
虚栄という断面から人を眺めるのも、人間という存在をより深く知る手がかりになるのではないかと僕は思う。
