プロの仕事
2024-02-15
仕事には「見える報酬」と「見えざる報酬」がある。
「見える報酬」とは給料である。
働く者にとって給料はとても重要。
仕事の対価として、きちんと支払われるべきである。
しかし、給料だけでは測れないものがある。
それが「見えざる報酬」だ。
「見えざる報酬」とは、形に表れない心や精神面を指している。
たとえば、困難な仕事をやり遂げたことで視野が広がった、自分なりの価値観を持つことができた、感動を分かち合える仲間に出会えた、などなど。
これらは、自分自身の成長という「見えざる報酬」である。
人は、仕事で悩み、苦しむからこそ成長できる。
周りが嫌がる仕事を引き受けて、それを前向きに捉えるところにグレードアップの可能性があるのだ。
また、自分たちがやっている仕事が会社のために大きな力になっている、人の役に立っている、社会のためになっている、という実感も「見えざる報酬」である。
こうした報酬を得ると気持ちが明るくなり、働く意欲がますますかきたてられて表情も生き生きとしてくる。
働くとは「見返りを求めない愛」と同じかもしれない。
見返りを求めず、会社が成長して大きくなっていくように全力を尽くす。
社会のために尽くすことにもなる。
それを喜んでくれる人がいて、その人たちの喜びが自分の喜びになる。
「見えざる報酬」とは、こういうことでもあると思う。
もちろん、会社は従業員に期待して、それなりの成果を上げることを求めているから、従業員もそれなりの見返り、つまり報酬を求めるのは当然のことである。
しかし、最初から「お金ありき」ではないということだ。
状況や内容にもよるが、「見返りを求める愛」は卑しいと思われがちである。
仕事に対する「見える報酬」をいちいち求めるようでは自らの成長に限界があるのだ。
たとえば、プロのスポーツ選手が練習をするとき、「この練習メニューをこなせば報酬がこれだけ増えるぞ」と考えているだろうか?
そうではないだろう。
金銭的な見返りを求めるのではなく、仕事を通してファンに喜んでもらいたい、感激・感動を共有したいという思いで、その都度その都度、練習に全力を出し切っているからこそ、数々の素晴らしいプレーができるのだと思う。
働くということも同じ。
「この仕事をやれば、これだけ給料がアップするぞ」ということを先に考えているようじゃ、とてもまともな仕事にはならないし、会社からも評価されない。
その都度その都度、最大限の力を出し尽くして仕事をしていれば、「ここぞ!」という勝負どころで最高の「パフォーマンス」を発揮して、チャンスをものにできる。
お金という「見える報酬」は、それについてくるのだ。
プロの仕事というのはそういうもの。
全力も出さずに「金さえ入ればいい」「金がすべて」と思っているようでは、いつまで経っても仕事のプロにはなれない。
お金を追いかけて仕事をするようでは、永遠にお金を掴むことはできない。
だから追いかけなくていいのである。
追いかけない人には、お金が後ろからついてくるものなのだ。
どんなジャンルでも仕事をやる以上は、そういう気持ちでいることが大事なのである。
仕事にどんな喜びを求めるのか、働く意欲をかきたてるものは何なのかは人それぞれだが、少なくとも単なる拝金主義で幸福を感じられるほど、人間も、人生も、仕事も、単純、浅薄なものではないと僕は思う。
分かち合う喜び
2023-09-13
何のために働くのか。
これは、僕たちが生きていくうえで非常に重要な命題である。
何のために働くのか、働くことで得る喜びや幸福とは何なのか。
自分なりに納得できるようにしたいものである。
あなたは自分の心にどう答えるだろうか?
周りから褒めてもらうため?
そんなことのために仕事をしていたら、褒められるために上司にゴマをすり、周りに対するアピールだけがうまい、つまらない人間になってしまう。
悪いことをしても、それが上司にとって何らかの利益になれば、上司は褒めてくれるだろう。
それがあなたの喜びなんだろうか?
「スキルアップ」して、自分の仕事を間違いなくやれるようになるためなのか?
若いうちは、まあそれでもいいかもしれない。
でも、それが最終的な人生の目標だろうか?
ガンガン稼いで金持ちになるためなのか?
それは誰だってお金はないよりあったほうがいい。
しかし、そこに生涯の喜びを感じるというのは、いかがなものだろうか。
自分ではなく家族や仲間たちが喜んでくれる喜び。
そういうささやかな喜びの積み重ねによって人は「ああ、幸せだな」と思えるのではないだろうか。
必ずしも「お金=幸福」なのではない。
お金や名誉や権力なんて、一時的な欲望を満たしてくれるものにすぎない。
たかがしれたものである。
では、人間は何のために働いているのだろうか?
仕事の対価として、ほどほどの金銭的報酬を超えれば、あとは「人間としての成長」だと僕は思う。
仕事を通して人間としてどれだけできあがっていくか、ということだ。
仕事をすると、喜び、悲しみ、怒り、ひがみ、やっかみなど、さまざまな思いを味わう。
あらゆる感情が経験できるのは仕事以外に無いのではないだろうか。
働くことを通して、人はさまざまな経験を積み、人間への理解をよりいっそう深めていける。
それが人としての成長である。
働くことで得る喜びや幸福は人それぞれ違うが、ほとんどの人は精神的な部分が満たされたときに感じると思う。
僕にとっての人生の大きな喜びと幸せの一つは、チームが一丸となって困難な状況下で仕事や物事を達成したときに得られる、「皆と分かち合う喜び」である。
言い換えれば、「感激・感動・感謝」だ。
困難や苦しみが大きければ大きいほど、分かち合う仲間が多ければ多いほど、この喜びは深くなり、長く続く。
喜びと悲しみを共有できた仲間や家族こそ、人生の財産だと僕は思う。
「皆と分かち合う喜び」を一度味わうと、またそれを味わいたい、もっとしっかりと生きてさらに広く奥深い感激・感動や、喜び、悲しみ、悔しさを、より多くの仲間と共有したい。
そういう機会にまた巡り合いたいと思うのだ。
RING FIVEの社長である僕にとっては、従業員が「この会社で働いてよかった」と思ってくれることがいちばんの幸せである。
いくら給料をたくさん払っても、とにかく会社が儲かりさえすれば優遇してやるという姿勢では、「この会社で働いてよかった」とは思ってもらえないだろう。
嘘をついたり、騙したり、人の心を傷つけたりすることなく、心の底からこうした喜びや幸せを味わった人は、死の床についたときに、「ああ、俺の人生はよかった」と、深い満足感に包まれるのではないだろうか。
そういう人生にしたい。
そういう人に僕はなりたい。
栄枯盛衰
2023-05-16
僕は人からよく相談を受けることがある。
はたからは順風満帆に見える人でも、意外な悩みや問題を抱えていることは多いものである。
人間は問題だらけ。
仕事の問題。
お金の問題。
人間関係の問題。
家族の問題。
健康の問題・・・。
挙げればキリがなく、一つ問題がなくなれば、またすぐに次の問題が起こる。
それをなんとかしたいと思って、人は悩む。
なかには、起きた問題を必要以上に大きく捉えて、鬱々としてしまう人もいるだろう。
問題はあってはならないもの、という気持ちが強すぎるのだ。
しかし、問題のない人生など、どこにもない。
問題がなくなるのは死ぬときである。
言い換えれば、問題があるのは生きている証なのだ。
一日中、何も考えずに寝っ転がっているだけなら、それで生きていけるなら、問題など生じない。
何らかの目的意識があり、「自分はこうしたい」という気持ちがあるのに、いまはそうなっていないから問題だと感じる。
つまり、抱えている問題が大きければ大きいほど、あるいは多ければ多いほど、真剣に生きているということである。
だから、問題があることを喜んだ方がいいのだ。
そうはいっても本当に問題だらけで困っているんだ、という人は、その問題がなぜ生じているのか、自分で考えてみるといいだろう。
たとえば、「1000万円あれば会社が興せるのに100万円しかない。問題だ」と思うのは、起業したいという夢や希望があるからである。
「あの部下はちっとも俺の言うことを聞かない。問題だ」と思うのは、部下に対する期待が大きすぎるからである。
将来の夢や希望があるのも、部下を育てて成長させたいと思うのも、自分に意欲があるからだ。
意欲があるのは、一生懸命に生きている証拠。
いいじゃないか。
そういう解決しがいのある問題がなければ、人はまったく情熱も意欲も生まれず進歩しない。
一方、問題だと思っていることも、よく考えれば問題ではないこともある。
たとえば、昨日は一本も契約を取れなかった。
それが昨日だけではなく今日も明日もその先もずっと続くようなら、今までの営業のやり方に何か原因があるわけだから、これは問題である。
しかし、昨日は駄目でも今日は契約が取れたのなら、それは問題ではない。
昨日はやり方が間違っていたかもしれないし、たまたまだったかもしれない、というだけの話である。
また、ものの見方を変えれば問題が問題でなくなることもある。
たとえば、長いこと仕事をしていると、自分が希望しない「不本意な異動」に見舞われることもある。
運送業で例えると、きつい内容の仕事やコースに送り込まれた人は、「俺はついてない」「嫌がらせだ」「やってられない」と思うだろう。
しかし組織の理論として、能力のない人間に厳しい仕事をさせることはない。
能力があるからこそ、つらい仕事をさせたり、うまくいっていないコースに「立て直してこい」と送り込んだりするのだ。
人は仕事で磨かれる。
これは僕の信条である。
つらい仕事ほど人を成長させる。
だから、誰もやりたがらない厳しい仕事やコースへの異動は歓迎すべきだと思っている。
お金をもらって成長させてもらえるうえに、厳しい仕事やコースでつらい体験をすれば弱い人の立場もわかるようになるのだから、「問題」ではなく、むしろ「好機」と捉えるべきである。
どん底にあるコースなら、なおけっこう。
失うものは何もない。
あとは前進あるのみ。
一方、新入社員の中には、いわゆる楽なコースに配属されなかったために、やる気をなくしてしまう人もいる。
なぜなら、「自分はこれからいまと同じ仕事をずっとやるんだ」と思っているからである。
そのため、「40歳、50歳になっても何も変わらず同じことをやっているのか」と、くさってしまう。
しかし、それは思い込みにすぎない。
実際には、五年後、十年後に同じ仕事をしていたとしても、経験を積むにつれて仕事の幅は広がり、奥行きが深くなっていくもの。
ようは、やりがいのある仕事になるかどうかは、自分の取り組み方次第なのだ。
入社当時に思い描いていたものとは違い、実際にはつらい思いをすることもあるだろう。
しかし、どんな会社も栄枯盛衰はある。
入社してから定年になるまで、ずっと調子がいいケースのほうが稀なのだ。
こうしたことがわかるようになると、ものの考え方や仕事の見方が変わっていき、以前は問題だったことが問題ではなくなることもよくある。
「問題だ、問題だ」と自分が悩んでいたことすら、忘れているかもしれない。
失敗しても死ぬわけじゃない。
生きていればチャンスはいくらでもある。
心を強く持って前向きに考えていれば、問題を解決する答えは必ずどこかで見つかるもの。
ただ、人間一人の力はたかがしれている。
問題の解決に自分を導いてくれるのは、他人への想像力と共感である。
その源泉となるのが、読書と経験。
いろいろな本を読み、いろいろな経験をしていくと、「なーんだ。こんな問題はどこでもしょっちゅう起きてるじゃないか」と気づくようになる。
特に、読書から得た知識や考え方、想像力は大きな力になるのだ。
RING FIVEの仲間たちを引っ張っていくには、いまの僕の力ではまだまだ足りない。
そのためには多くの本を読み、先人たちの知識や経験から学ぶことによって、問題解決の突破口を開くような気付きや、心の強さを得るべく、僕はこれからも日々勉強しかないのである。
RING FIVEの社長である僕が仲間たちの足を引っ張るわけにはいかない。
毎分毎秒がプレッシャーである・・・
でも、そのプレッシャーを楽しめる環境を仲間たちがつくってくれている。
みんなには本当に感謝しかない。
僕が「ありがとう」って言うと、いつもみんなは「出来ることをやっているだけだから気にするな」って言ってくれるけど、この場を借りて改めて。
いつもいつもRING FIVEという会社を助け続けてくれて、
ほんとうにありがとう。
禍福は糾える縄の如し
2023-04-21
組織のトップやリーダーは、周囲とは反対のことも考えなければいけないことがある。
事業がうまくいかず皆が落ち込んでいるときには、泰然とした姿を見せて「何を落ち込んでいるんだ、いずれ絶対にいいことがある」と肩を叩き、未来の明るい姿を示すようなこともしなければならない。
逆に、計画がうまくいって皆が喜んでいるときは、「ちょっと待てよ。これは長続きしないのではないか。最悪のときにはどうするか」と考える。
「今回はたまたま運がいいだけだ。実力以上の結果ではないか。将来の大仕事は実力以上の大きなリスクに直面するかもしれない。研鑽を積め、たえず謙虚な気持ちを忘れないように」と、逆に引き締めることもしなければならない。
常に周りと逆のことを考えるのは、相場の世界には、「上がったものは必ず下がる。下がったものは必ず上がる」という極めてシンプルな原理がある。
なにごとも永遠に上がり続けることも、永遠に下がり続けることもない。
別の言い方をすれば、上がるベクトルはすでに下がるベクトルを含んでいるし、下がるベクトルは上がるベクトルを含んでいるのだ。
だから、絶好調のときこそ冷静になり、次に訪れるかもしれない最悪の事態を想定しておかなければならない。
それは、修羅場をくぐり抜けるうえで最も大切な心構えと言えるのではないだろうか。
僕が心がけている経営姿勢は、「悲観的に考えて、楽観的に行動する」ことである。
最悪の事態を想定して準備をしたら、あとはうまくいくと思って明るくいくほうがいい。
「悲観的に考えて、楽観的に行動する」はあらゆる局面で通用する考え方だと思う。
交渉の場面では悲観的なことばかり考えていると、かえって相手との対立を生み出し、自社の不利益に繋がりかねない。
企業のトップであれば、会社や社員をどう守るか、自社と交渉先の双方にとって何が利益になるかを判断する。
現場の社員も、それぞれのポジションでできる限り、こうした意識を持つようにするべきではないだろうか。
「ハインリッヒの法則」
2023-04-12
「ハインリッヒの法則」という言葉を聞いたことがあるだろう。
1つの重大な事故が起きるまでには30近い軽微な事故が起きており、さらにその背後には10倍の300回くらい「ヒヤリ」「ハット」とするような小さな失敗や異状があるという、事故の法則のことである。
つまり、周りにいくつも起きている「あれっ?なんかおかしいな」と思う程度の出来事を見逃していると、それが重大な事故につながるということなのだ。
ただ、そうした小さな出来事に、人はほとんど注意を払わない。
「自分だけの感じ方の問題だろう」「ちょっとしたミスだ」と思って報告しないので表に出ず、本人も、あたかもなかったことのように忘れてしまう。
重大事故の裏の裏にある多くの人の積もり積もった300の「ヒヤリ」「ハット」を失敗として共有し認識し、改善していくのは、とても難しいことである。
しかし、ものは考えようで、小さな失敗や問題がしょっちゅう起きていれば皆が絶えず緊張感をもって仕事に当たり、油断は生まれない。
小さな失敗があるたびに反省し、改善していけば、重大事故を起こさずに済む。
したがって、小さな失敗はたくさんしたほうがいい。
仕事で大失敗しないためのいちばん良い方法は、絶えず小さな失敗をしていくことだと、僕は思う。
その時に大事なのは、失敗したらすぐ、正直に上司に報告することだ。
報告すれば叱られて落ち込むかもしれないが、「重大事故を未然に防いだ」と考えて、頭を切り替えればいいのだ。
小さな失敗なら乗り越えることができる。
失敗そのものを反省したら、いつまでもくよくよ悩む必要はない。
ただし、同じ失敗を何度も繰り返すようでは駄目である。
「あの人は最初の失敗から何も学んでいない。大きな仕事はまかせられないな」ということになってしまう。
若い頃は、誰でも失敗をして上司に叱られるもの。
特に新入社員のときは、何も知らないのだから失敗が多くて当たり前。
でも、会社というのは新入社員が犯す小さな失敗ぐらい、こういうことが起こるであろうと最初からお見通しなのだ。
また、上司には「そろそろこの人も失敗するぞ」というのがわかる。
この時期になると疲れが出てくるとか、仕事に慣れて手を抜きがちになるといった具合に、おおよその見当がつくわけだ。
僕も通ってきた道だし、これまでの面倒を見てきた人達も同じようなものだから、小さな失敗への対処の仕方もある程度心得ている。
ところが、小さな失敗を隠してしまうと、ちょっとやそっとでは取り返しのつかない大きな事故につながる可能性が高くなってしまう。
僕は、優秀な人間ほど失敗を隠そうとする、と思っている。
学校や前の会社ではずっといい成績、入社後も失敗なく仕事をこなしているような人は、本人も周りも優秀だと思っているだろう。
それが小さな失敗を犯してしまった。
本人は自分のプライドを守りたい。
周りから「ああ、この人も普通の人間か」と思われたくない。
だから必死になって失敗を隠すわけである。
しかし、どんなに優秀でも人間は失敗をする。
人間は間違いを犯す動物なのだから、絶対に失敗しないなんていうことはあり得ない。
本人は、「黙っていればずっと優等生でいられる」と思っているのかもしれないが、そもそもの考えが間違っている。
小さな失敗を隠したために、本人どころか会社全体の信頼を失う事態に至ってしまうかもしれない。
一度失った信頼を取り戻すのは、容易なことではない。
だから、「すべてがうまくいっている」と思ったときには充分に注意すべきである。
誰かが小さな失敗を隠している可能性があるのだ。
人間とはどういう生き物かをよく勉強している人なら、最善のときほど最悪をイメージすべきだと知っているので、「ちょっと待て、おかしいぞ。あまりにも順調すぎる」と感じ、小さな失敗や異状に敏感になるはず。
逆に、「私はここ何年も、何一つ失敗はない。すべてうまくいっている」などと自慢げに言う人がいたら、その人の目は節穴だと思った方がいい。
人間について勉強をしていないから、失敗がないのは良いことだと浅薄な捉え方をしてしまうのだ。
何もかも完璧なんていうことは、人間にはあり得ない。
それを忘れて「すべてがうまくいっている」と思っていると、しばらくしてから、隠蔽され蓄積され続けていた失敗がドーンと一気に露呈し、会社がひっくり返ってしまうことがよくある。
そうならないためにも日ごろから、小さな失敗やミスを報告しやすい環境作りというものを、会社全体でやっていかなければならないのだ。